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カフェ・サン・マルコⅡ 放逐の地、流謫の空、日常の崖、超常の涯、僕たちの心臓はただ歌い出す


過ぎ越しの少年 歩いてゐる 環百道路の向こう側 不気味に流れる根無し草 道草模様の漂流者 あゝ帰らざる故郷…… 棲めばエル・ドラド…… 記憶のギャラリーで迷子になって…… 愚者の漬物石と隠者の糠床……
by Neauferretcineres
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メモ帳
わてが最近、買うた酒 のコーナー
新甘泉 梨の果肉と果汁があふれるお酒国産リキュール 北岡本店
ドンキで売ってた梨リキュール。作ってるのは奈良県吉野の酒蔵。
鳥取県産の梨をぶちこんである。アルコール分は5度。
なんとなく日本海側のエキスを毎日ちょっとずつ摂取したいんよね……。
熟れつつも叙情にこの実は引き締まりて。

ところが魂はいらぬ、技術だけ教えてくれればいいと日本人はいってくる――武満徹と大江健三郎の対談「現代世界の表現者」③

武満徹と大江健三郎の対談「現代世界の表現者」より③

大江 ハインツ・ホリガー氏がイライラしたことの理由には、いろいろの側面があったと思いますが、単純化していうならば、その日本の学生たちの態度は、近代からあとのヨーロッパに対する日本および日本人の基本的な対し方を表わしているように思いますね。原則として日本人は和魂洋才ということでもってヨーロッパに向っていった。すなわち日本の魂とヨーロッパの技術が重なり合って新しいものをつくっていくことを夢想した。音楽でも、とにかくリードの厚さというような技術の問題、現在のいいかたでいえば、テクノロジーのノウ・ハウさえはいってこさせればそのテクノロジーでもって日本人の魂、精神を表現できる、そして日本人独自の新しい文明をつくってゆこう、それによって日本の近代化をなしとげようと思ってきたわけです。百年間もその上も……ヨーロッパ人の側からみれば当然それはばかにされたような話ですね。すでにヨーロッパ人はひとりの人間の全存在をかけて表現して生きている。ところが魂はいらぬ、技術だけ教えてくれればいいと日本人はいってくる。とてもとても和魂が洋魂とがいっしょになって議論するということはなかった。しかしハインツ・ホリガー氏のような人にとっては、ヨーロッパの過去の音楽的な流れ、伝統、人間の精神の動きをすべて背負いながら未来を見つめている。そのような人間として同時代に生きていること自体を表現したい。そういう表現者としての彼が行き詰まりを感じ、それをヨーロッパの没落とか終末とかいうもっとも大切な問題の提起にもこたえようとしている。そのホリガー氏のところへやってきた音楽の学生が、あいかわらず技術のことにしか興味を示さなかったということなんですね。ホリガー氏の担っているのと同じ問題が現代日本人にあるにもかかわらず、この世界の中で日本人がどう存在しているかということなどはぜんぜん考えないで音楽をやる、としかみえぬ若い人たちがあらわれたのでホリガー氏にはさけ目がなまなましく見えたのでしょう。これは音楽のみにかぎらない、表現者一般にみられることだけれども……

武満 日本では自分個人を本当に見つめることがとてもむずかしいという気がどうもするのです。それは自分の中に閉じこもる、あるいは閉ざされた個性とかいうことではなくて、本当の個性というものはやはり集団に向って開かれなければいけない。それには本当に自分を見ないとどうしようもないと思う。作曲家としてのぼくは日本を見ようとします。そこで日本の楽器を使ったりしているのだけれども、そうすると、ある批評が出るのですね。

「一九六〇年においてはこれはある意味で非常に有効であった、だけど一九七〇年においては武満がそういうことをやるのは、自民党のプログラムと非常に合致しているのではないか」などというようなかなりヒステリックな意見や批評が出たりしてびっくりしたことがあります。(笑)日本の現代語という中には、イライラして非常に神経質でありながら、全体的には平板な日本語というものがある。それと同じように、ぼくらはいろいろな音楽的な材料、音素材をもっている。それはそれぞれ非常に繊細でミクロ的、ないしはヨーロッパのマクロ的な構造構築的な考え方のものから、非常に微視的な、ある表出性をもったものまで、それらをぼくがだんだん、知っていくと、現代日本語と同じようにある種の平板さをもっているのではないか、それは何に由来するのかとか、これは何とかしなければいけないと考えるわけです。もし日本の伝統的な音楽を知っていて、簡単にヨーロッパの音楽などにくらべて問題なくこっちのほうがいいということを言えれば、これはすごく楽なのです。だけれどその違い方、ありようの違い方ははっきりわかってきた。日本が西洋というものから本当の意味での影響を受けるとしたらこれから受けるのではないかと思うのです。文明開化において福沢諭吉が酒と魚の脂と混ぜることができないのに、近ごろは魚の脂の臭いのするものがどうも多過ぎるというようなことを言ったらしい。ただぼくは反面で、酒と魚の脂とまざったっていっこう構わないと思います。ただそういうものは簡単にまざるだろうとは思わないのですが。たとえばぼくがオーケストラと日本の楽器を使って書いた作品などは、それをまぜたいという意識ではまったく作っていないわけです。だからといってそれらを本質的に違うものだとして提示するということとも、ちょっと違うんですね。

(略)

 よく、音楽はいいですね翻訳されないでもすぐわかるから、と言われるんだけれども、それは必ずしもそうじゃないんですね。

大江 そうですか。

武満 もしかしたら本当は言葉のほうがわかるのかもしれない。つまりオーデンの詩の朗読を聞いたり、ブルトンが実際に詩を読んだのを聞いたり、エリュアールが自分の詩を読むとき、これは粟津則雄さんから聞いたことですけれども、本当に西洋的な朗唱法でひとつの自分の詩を読むというのですね。実際にぼくが聞いたエリュアールの詩の朗読でもその本当に高揚する言語が非常に音楽への近親性を感じさせるわけですね。

(略)

大江さんの文体については、それを読む読者に対してかなり攻撃的になにか与えるものがあると思うのです。それに対して読者は大江さんの文学を読むときに、ほかの人の文学を読むときとは違う姿勢が大江さんの文学から引き出されることがあると思うんですよ。ぼくがさっきから文学者がある意味でうらやましいというのはそういうことなんです。音楽の場合、もちろん積極的な聞き方もあるんだけれども、どちらかというとパッシヴに聞くことができるのですね。ぼくが大江さんの文学を読むときには、大江さんのある攻撃性に対して自分が受けとめてその中にはいろうという気持がかなりありますね。それで本当に自分が読んだ、自分なりに読めたのではないかという気がするのですね。そうでない文学ももちろん日本にあると思うのです、大江さんの小説を読んでぼくが自分なりにある感動をもつとしたら、それは大江さんの文学に対して自分が積極的に向ったということだと思っているのです。

大江 表現者の仕事には、ある固有のスタイルというものがありますね。ひとつの表現があると、そこにスタイルというものがある。何かを表現するといっても実際には、ただその内容を伝えるだけでいいはずだから、その内容と別にスタイルというものまでは要らないはずだが、真の表現にはつねにスタイルというものがある。文学にはもとより、音楽にもあります。このスタイルというものは、なんだろうか。ぼくはそれはやはりその表現者の人間としての生き方の全体だと思う。(略)ところが一般には、しばしばその固有のスタイルがないもの、したがって表現者と享受者がお互いにスタイルを共有しているという感じがないままのもの、両方ともが受け身でのままでいていいようなものが、マス・コミ文学をつくっている。それは音楽としてもあるように思います。それに反省をもとめなければならない。なおも大企業体制、大メディア体制が進んで、国民に対して権力が一つのスタイルを求めさせ、それを与えて、パッシヴに受けとめた満足が普遍的になるような状態になれば、もうそのような個人には体制をつくり変えることはおろか、個人として生きいきとしていることすら不可能です。そうした状態をうちくずす者として現代の表現者が考えてゆこうとすれば、まず言葉もスタイルも明確にするということがなければなるまいと思います。

武満 スタイルというものは、変な言い方ですけれども、礼儀だと思うんです。それは何かといえば、自分がやっていることに対して自分がどれだけ責任をもてるかということだと思うのです。文学ではとくにそうだと思いますが、音楽でも作曲家が、非常に個人的に、他者にある意味ではかなり攻撃的になるかもしれない、その攻撃したときに、それへの責任を自分がもっているか、もっていないかということだと思うんです。それがやっぱり本当のスタイルではないかと思います。

 その自分が攻撃したものに対しての自分の責任ということがない。そういう日本の文学が多すぎると思うのです。音楽でもそうです。音楽の場合なんかかなり一方的にやるわけです。それに対して自分がそれにどれだけ責任をとれるかということです。

初出:『世界』19752月号


ところが魂はいらぬ、技術だけ教えてくれればいいと日本人はいってくる――武満徹と大江健三郎の対談「現代世界の表現者」③_b0420692_17250583.jpg

Wojciech Siudmak, Poeme Matinal (Morning Poem)


by caffe-san-marco2 | 2023-04-09 17:28 | 対談・対話・鼎談・座談 | Comments(0)
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