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カフェ・サン・マルコⅡ 放逐の地、流謫の空、日常の崖、超常の涯、僕たちの心臓はただ歌い出す


過ぎ越しの少年 歩いてゐる 環百道路の向こう側 不気味に流れる根無し草 道草模様の漂流者 あゝ帰らざる故郷…… 棲めばエル・ドラド…… 記憶のギャラリーで迷子になって…… 愚者の漬物石と隠者の糠床……
by Neauferretcineres
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メモ帳
わてが最近、買うた酒 のコーナー
Kloof Street Swartland Rougeクルーフ・ストリート スワートランド ルージュ 南アフリカ赤ワイン
ふつうアフリカワインのラベルには動物やら何やらの生き物やら野生的な風景やらが
描かれてるものだけど、Mullineux(マリヌー)のこのワインのラベルは
夕暮れ時に一瞬見られる不思議な色合いの青空のような、淡い青の地に
控えめな金色で文字が記されているだけ。
そこがいい。
味は濃厚。空に憧れる土の浪漫と情愛、いささかの辛苦。

将校の立場からは小説は書けないような気が――島尾敏雄と安岡章太郎の対談「怯えについて」①

今現在、ミサイルが飛んできたり、飛ばしたりみたいなことはもちろん日本本土では起こっていないわけではあるけれども、
いろいろな物の値段が上がり、物によっては欠品や品薄状態が生じていることを見るにつけても、
やはり日本も”戦時中”になってきている感は否めない。ので、
軍隊経験のある小説家の話を虚心坦懐に聞くこともやはり重要だろう。
第三次世界大戦が起るのか、起っているのか、それはわからんけど、まずは第二次世界大戦とはどんなものであったかを今一度、考えてみる。
というわけで今日はこれ。

島尾敏雄と安岡章太郎の対談「怯えについて」(島尾敏雄対談集『内にむかう旅』泰流社刊 に収録)より①

島尾 特攻に出る者の地位を認めざるを得なくなってきたね。そういうことじゃないかね。だから戦争末期になってだけれども、だんだんその地位が逆転とまではいかないけれども、発言力が非常に大きくなってきた。海軍予備学生の、予備将校の。

安岡 兵学校出は特攻要員は少ないわけね。

島尾 いないことはないけれども、数のうえから予備学生のほうが圧倒的だもの、それでおそらく兵学校を出た者は、もったいないと思ったんじゃないか、それはあると思うんだよ、技術の面で。

安岡 温存するという意味でね。陸軍の場合は士官学校出は実砲と称するわけ、そうして幹部候補生上りは空砲と称するわけ。そうして矛盾していることは、前線に出すのは空砲ばかりなんだよ、実砲はなるべく温存するんだ。

島尾 だからそういう事情はぼくはあったと思うね。ところがそういうことが積み重なってくると、やっぱり最前線に出されている特攻の発言力が強くなってきた、ということがあると思うね。

安岡 ことのついでだから言いますとね、過去のことではあるけれども、まだ現在の日本を軍隊で解釈するという見方は非常に多いわけですよ。そのときに、海軍はとか、陸軍はとか、将校はとか、兵隊はとか、簡単にいうね、そうするとこちらは、ちょっといらいらする面があるな。

島尾 ぼくは将校の経験があったわけだけれども、将校の立場からは小説は書けないような気が、これは非常に素朴なあれだけれども、もっているんだね、根元に。どうもはっきりわからないけれども、そういう感じなんだな。

安岡 近代文学の鼻祖をジャン・ジャック・ルソーであるとするならば、ルソーは絶対に将校になれる家柄でもないし、体質でも、資質でもないような気がするね。だから庶民という言葉は、非常にわけがわからなくていやだけれども、やっぱり庶民の立場に立った将校というものは矛盾だな、これは。

島尾 まあ日本の軍隊のそういう仕組みというものは、また別の見方もできるかもわからないけれども、自分が将校の体験しかなかったわけでね、戦争のときの体験に取材して小説を書く場合に、非常に忸怩(じくじ)たるものがあるね。はたして小説になり得るかどうかというね。だけれどもそれと同時に、今度はまた、将校でなくて下士官であった人たちが、まったくそれに寄りかかって、それはもう片言隻句というか、咳ひとつしても小説になるんだな、なるように思うんだ、ぼくは。それをまた、そのまま気安く書いていると反撥もあるんだけれどもね。

安岡 それはそうだ。
将校の立場からは小説は書けないような気が――島尾敏雄と安岡章太郎の対談「怯えについて」①_b0420692_03191456.jpg
Wifredo Lam, The Jungle


# by caffe-san-marco2 | 2022-05-07 03:29 | 対談・対話・鼎談・座談 | Comments(0)

旅は駱駝をつれて

今日は、関根弘『針の穴とラクダの夢 半自伝』という本から引用してきましたが、
僕が“ラクダ”と聞いて思い出すのは、
中国に1、2週間旅行してたときのことですね。

大阪から船で上海に上陸して、そこから香港まで鉄道(時には新幹線またはバス)で旅してたわけですが、
その旅の終わり近く、広東省のある街でですね、
夕方、通りを歩いてたら、浮浪者みたいなおっさんがいて、
そのおっさんの横をふと見たら、なんとラクダがおって、
えっ、このおっさん、ラクダに乗ってここまで来たの?!
さすが、中国は広いな、って思ったという、まあただそれだけのエピソードですが、
なかなか印象には残ってます。ラクダ、好きやね。

僕も一度、ラクダに乗ってはるばる旅をしてみたいものです。
日本でだったら、職務質問されちゃうかな?
旅は駱駝をつれて_b0420692_23224886.jpg

photo by Sangeet Rao

この写真はたぶん中国やないけど。うーん、ここどこやろ?

# by caffe-san-marco2 | 2022-05-05 23:07 | 雑記 | Comments(0)

路地裏という路地裏から「紅屋の娘」を歌う子どもたちの声が聞こえてきた――関根弘『針の穴とラクダの夢』③

関根弘『針の穴とラクダの夢 半自伝』より③

 ケン玉(日月ボール)が流行った。ヨーヨーが流行った。戦争ごっこが流行った。ケン玉もヨーヨーも欲しいことは欲しかったが、買って貰えるような家計の状態でないのがわかっていたので、すべて横目で眺めすごした。戦争ごっこは、小学校の年長組にいた永山というガキ大将の流行らしたもので、大倉の原ッぱでおこなわれていた。大倉の原ッぱというのは、玉の井駅から向島劇場に向かう線路ぎわにあった原ッぱで、大倉牛乳の乳牛が飼われていたところからその名前がある。乳牛はまもなく姿を消し、この原ッぱに小高い台地が造成され、そこにレールが敷かれて、東武電鉄と交叉する京成線が開通(白鬚―向島請地間)、小高い場所は、京成玉の井駅になったのであるが、戦争ごっこが流行ったのは、ちょうどその工事がおこなわれ、草ッ原に赤土の地肌がみえはじめた頃だった。土木工事の現場は、恰好の陣地に見立てられたわけである。太い番手の針金を竹の筒におさめた手製のサーベルをもち、階級章も手製のものをつけて、嬉々として敵味方にわかれた子どもたちが陣地戦を展開していた。わたしは小さいときから兵隊がキライで、戦争絵本の類にはみむきもしなかったから、戦争ごっこの仲間入りをしたいとは思わなかったが、針金と竹でできているサーベルは欲しいと思った。しかしそんな些細なのぞみもかなえられそうにないわが家の経済状態だった。一銭とか二銭という小遣いもようやくもらえていたのである。

 そのうちわたしの家は、百花園裏へ越して、大倉の原ッぱから遠くなってしまい、おかげで針金と竹製のサーベルの誘惑から自然のがれることができた。昭和四年(一九二九)だった。それは野口雨情作詞、中山晋平作曲の「紅屋の娘」がバクハツ的に流行した年である。わたしは小学四年になった。

 紅屋の娘のいうことにゃ[正しくは、紅屋で……]

 サノ いうことにゃ

 春のお月様 薄曇り

 ト サイサイ 薄曇り

 路地裏という路地裏からこの歌を歌う子どもたちの声が聞こえてきたような気がする。この年、やはり「君恋し」「東京行進曲」などのヒット・メロディが出ているのだが、わたしにとっては、「紅屋の娘」が一番印象深い。一度、聞いたら覚える歌だった。日暮里時代から、商売が商売だったので、流行歌にはなじんできたが、自分が歌った流行歌は、「紅屋の娘」がはじめてで、さかのぼって「アラビアの唄」(昭和三年)などを歌うようになったようなきがする。

 昭和四年は、「紅屋の娘」の歌とともに紙芝居の拍子木の音が聞こえてくる。わたしのはじめてみた紙芝居は、立ち絵という形式のもので、竹串にさした人形絵を一つ一つ動かして鏡の舞台に写してみせるものだった。子どもたちは一銭だして飴を買い、飴をしゃぶりながらみるのである。演(だ)し物は孫悟空で、立ち絵には、口から玉を吐くと妖術が展開するというような仕掛けがいろいろほどこしてあり、仕掛けが面白くて毎日みた。ついにはみるだけでは満足できなくて、自分で紙芝居をつくり、紙芝居の舞台の幕をおふくろにつくってもらったりしたが、立ち絵形式の紙芝居はほどなく、劇画形式に変わり、変わった当座はなかなか馴染めなったものである。

 昭和四年は、世界恐慌のはじまった年でもあり、不景気はいちだんと深刻で、失業者が巷にあふれ、紙芝居は失業者の新職業の一つで、そのころ急激にふえたのである。もちろん子どものわたしにそんなことはわかっていないが、親父も失業者の一人なのだから不景気風は身にしみていた。わが家に、近所の子どもを集め、ギニョール(人形の頭と手足に指を入れて動かすもの)を上演したのも、この年のことである。

 ギニョール上演の主役大河原兄弟と親父はどこでどう知り合ったのかは霧の中だ。ある日、人形芝居をやるから子どもたちを集めてこいといわれて、わたしの家に近所の子どもを集めた。六畳と三畳の部屋をぶちぬいて会場にした。

路地裏という路地裏から「紅屋の娘」を歌う子どもたちの声が聞こえてきた――関根弘『針の穴とラクダの夢』③_b0420692_22445444.jpg
Georges Seurat, Trombone player


# by caffe-san-marco2 | 2022-05-05 22:46 | 随筆・ノンフィクション・評伝・紀行文 | Comments(0)

不思議な町の周辺は零細企業の町だったのである――関根弘『針の穴とラクダの夢』②

関根弘『針の穴とラクダの夢 半自伝』より②

 寺島に越してきてから、わたしが“発見”したのは、駄菓子屋である。一銭もっていけば、菓子でもオモチャでも自由に買えるという店は、日暮里の近くにはまったくなかった。ところが寺島にはそういう子ども相手の店が引越す先々の路地裏にあった。その駄菓子屋の店先で、わたしは映画のブロマイドをはじめてみた。それはグリーン色をした時代劇の俳優で、映画――いや、そのころは活動写真――の妖しい魅力を発散していた。それまでに映画をみた記憶は二度ある。一度は、日暮里の近くの映画館でしょっちゅう切れるフィルム、二度目は、両親に連れられて浅草の帝国館で、栗島すみ子主演の「嘆きの孔雀」をみている。みてもよくわからなかったのだろう、またみたいと思ってもいなかったのだが、駄菓子屋の店先のブロマイドは、未知の世界からなにかをわたしに語りかけてきたのである。

(略)

 寺島町に越してきてから、くらし向きが悪くなったのはわかったが、どのていどに困っているのか、苦しいのか、くわしいことはなにもわからない。しかし引越すたびに家が貧弱になるので、それなりに貧乏というものを感じるようになった。はじめから貧乏なら貧乏人の子どもとしてたくましさが身についたのだろうが、なまじ坊っちゃんなどといわれて育った時期があるだけにひ弱なところがあった。学校の屋上で心細くなり泣き出したのもそのせいだろう。

(略)

 大正が昭和に変わったのは、喪章をつけて学校にいったのでおぼえている。昭和二年、三男の昭(あきら)が生まれている。昭のことをわたしたちはショウちゃんと呼んでいた。昭和の昭をとったわけだが、(略)日暮里時代、愛読した「正ちゃんとリスの冒険」というマンガの影響を受けて、わたしは正ちゃんという名前の弟が欲しくてならなかった。(略)

 不景気でも世の中は遊んでいるわけではなかった。けっこういそがしそうに子どものわたしにはみえた。近所の菓子工場では、毎日、沢山の卵を使うため、籾殻が工場の前に山を作っていた。サツマイモを斜めに切ったようなお菓子には、天日があてられていたが、金蝿が景気よくむらがっていた。そのそばには鉛筆工場があった。工程半ばの鉛筆がやはり工場の前に並べられていた。夜になると賑やかになる不思議な町の周辺は零細企業の町だったのである。そして自然に囲まれていた。家のまわりの池では、よくカイボリなどやっている人の姿をみかけたり、湿地では芹がとれ、それが食膳に上ることもあった。

不思議な町の周辺は零細企業の町だったのである――関根弘『針の穴とラクダの夢』②_b0420692_21430044.jpg
Georges Seurat, Alfalfa, St. Denis


# by caffe-san-marco2 | 2022-05-05 21:45 | 随筆・ノンフィクション・評伝・紀行文 | Comments(0)

夜になると賑やかになる暗い不思議な町だった――関根弘『針の穴とラクダの夢』①

今日はこどもの日でありますので、子どもが出てくる話にしましょう。
といっても、今からおよそ百年前、大正の終わりから昭和初期にかけての話ですが。
場所は、東京墨田区。

関根弘『針の穴とラクダの夢 半自伝』(草思社刊)より①

 小学校へ上がる前の年、大正十四年(一九二五)も末の頃、日暮里から寺島町へ引越した。どんより曇った日だった。トラック一台で新しい家に移った。日暮里の家からくらべたら三分の一もない。庭のない二階屋で玉の井の娼家に隣接していた。夜になると賑やかになる暗い不思議な町だった。射的屋や矢場などもある薄暗い通りを人がぞろぞろ歩いている。

「あれはなんの店?」

「メイシ屋だよ」

「メイシ屋ってなアに?」

「お酒を売るところだよ」

 おふくろがいった。あんなところでどんなふうにして酒を売っているのだろう。後年、メイシ屋は銘酒屋と書くので、おふくろがお酒を売るところだよ、とおしえたのは満更、噓ではないとわかったが、子ども心にその答が半分は噓のように思えたのも事実なのである。

 浅草十二階下にあった銘酒屋が震災後取払いになって、移転してきたのが、私娼窟玉の井のはじまりだ。わたしの家が日暮里から寺島町へ越してきたのは、玉の井が私娼窟化してまだ日の浅いときだったのである。寺島町、すなわち玉の井の最初の借家は、一、二年もしないうちに娼家の一角にのみこまれてしまった。もっともそうなる前にわたしの家は、ほど遠くない場所に越している。まことにうかつな話だが、両親が死んでしまってから、わたしは、日暮里から寺島町に越してきたのは、地獄宿の経営ということをひそかにかんがえてのことではないかと思った。京成電車の向島請地駅(いまはない)のそばの南龍館通りに親戚(おふくろの兄)があったので、その関係で越してきたのだとばかり思っていたが、四十九歳で死んだショウちゃんという弟の葬式のとき、従姉の愛子ちゃんというのが、「銘酒屋をやるつもりで越してきたのよね」といったので、やっぱりそうだったのかと思った。愛子ちゃんというのは、請地の親戚の長女で、わたしより六つ年上である。

 向島請地駅[正しくは、向島駅]を起点として、玉の井を貫通して白鬚橋まで京成電車が支線を引いたのは、わたしの小学生の頃であり、荷風の玉の井を舞台にした「濹東綺譚」(昭和十一年)が書かれた頃には廃線になっている。

夜になると賑やかになる暗い不思議な町だった――関根弘『針の穴とラクダの夢』①_b0420692_20250956.jpg
Georges Seurat, A canoes

# by caffe-san-marco2 | 2022-05-05 20:30 | 随筆・ノンフィクション・評伝・紀行文 | Comments(0)


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