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カフェ・サン・マルコⅡ 放逐の地、流謫の空、日常の崖、超常の涯、僕たちの心臓はただ歌い出す


過ぎ越しの少年 歩いてゐる 環百道路の向こう側 不気味に流れる根無し草 道草模様の漂流者 あゝ帰らざる故郷…… 棲めばエル・ドラド…… 記憶のギャラリーで迷子になって…… 愚者の漬物石と隠者の糠床……
by Neauferretcineres
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メモ帳
わてが最近、買うた酒 のコーナー
Kloof Street Swartland Rougeクルーフ・ストリート スワートランド ルージュ 南アフリカ赤ワイン
ふつうアフリカワインのラベルには動物やら何やらの生き物やら野生的な風景やらが
描かれてるものだけど、Mullineux(マリヌー)のこのワインのラベルは
夕暮れ時に一瞬見られる不思議な色合いの青空のような、淡い青の地に
控えめな金色で文字が記されているだけ。
そこがいい。
味は濃厚。空に憧れる土の浪漫と情愛、いささかの辛苦。

偶像(アイドル)化しようとするこの己を破壊せよ、偶像(アイドル)化させようとするあの客を凌駕せよ――GEZANライブレポ

万博の影響で秋開催となった淀川花火大会の終了とともに、
夏の名残りも一掃されたようで、
すっかりひんやりと秋の空気に。
今日からはやっとほんまの秋や!!

さて、先日、久しぶりにGEZANのライブ観てきたから、
その感想を。

オルタナティブ・ロックは、”非主流のロック”なんて訳されることもあるけれど、
もっと日本的に判りやすく、ちと時代劇風に訳すとすれば、
つまりは”裏街道のロック”ってことであって、
GEZANは来年3月に武道館でワンマンライブするわけなんだけど、
裏街道出身のGEZANが果して、
あちらこちらの裏街道を伝って武道館へと行き着くのか、
それとも裏街道を時々は使いつつも、結局は表街道からの武道館入りとなるのか、
そこんとこがやはり、昔からGEZAN知ってる人間としては
興味あるところやなー。

裏街道出身のバンドでもちょっと人気出てくると、
だんだん表街道に顔出すようになってきて、
表街道をメジャーの音楽会社が手配した駕籠で行き来するようになって、
ときたまぶらっと徒歩で裏街道に帰ってくることはあっても、
だんだんその頻度も少なくなって、
すっかり表街道の人になってしまう、てなケースが多いもんなー。
それはそれで別に悪いことではないけど……。
表街道に行けるのにあくまで裏街道メインでずっとやっていくのは、
それなりの根性がいりまっせ……。
こっちから表街道に出ていくんじゃなくて、
お前の方が裏街道に入ってこいよ、って客を引き入れなきゃいけない。

GEZANのライブも楽しませてもらった(いろいろ工夫を凝らし刺激に満ちてた)けど、
GEZANの客が表街道の人間と裏街道の人間とが微妙な割合で混在してるのも
なかなか面白い具合であった
(僕が観に行ったのは、対バンがbachoの日とLOSTAGEの日やった関係もあって、
客のオルタナ度の振れ幅が大きかったように思う)。
ブラッドサースティブッチャーズにしろイースタンユースにしろ、
オルタナのバンドってのはだいたい、
モッシュやダイブや暴力なしでどれだけ客をパンクに昂らせることができるか、
ってところが出発点になってるわけなんだけど、
今のGEZANの客はそういう出発点というか文脈というか、
そんなんあんまし知らんだろうしなー。
もちろんモッシュやダイブも
それが自然発生的なアクションなんやったら全然かまわんけど、
予定調和的にこの曲のこのところでモッシュする、ダイブする、みたいになってくると、
もはやアイドルの振付けといっしょで、
そんなんはオルタナのライブの精神とは違ってくるわなー。
そうゆう予定調和的なんを好む表街道の客をいかにして裏街道に引き込んで、
彼らの未知の領域、予想外の世界があることを見せていくか、ってことが
ポイントやなー。
チケット代2000円や3000円のライブで人生変わるような衝撃を受けること、
裏街道やったらしょっちゅうやしな。
逆に表街道のチケット代1万近くのライブで、そんな劇的な衝撃受けることなんか、
あるんかいな?

そもそもライブハウスは決して“安全な場所”じゃない。
ドアを1枚開けて中に入ったが最後、一生が変わるかもしれないものと出会う場所なんで。
ちっともセーフティな場所じゃないんですよ。
――能勢伊勢雄(岡山ペパーランド)
普通のロックは”曲”を聴かせるわけだけど、
オルタナのロックは曲の中で
”音自体”、”音そのもの”を聴かせる方にむしろ主眼があるわけで、
曲が盛り上がりさえすればそれで万事OK、
なんか激しいようなことしてたらカッコイイ、という表街道の連中に
いかにして音に注意を向けさすかってことが
オルタナバンドの本懐となってきますなー。

首にタオルを巻いてライヴハウスに行ってるようなヤツらのことだよね(笑)。
キッズじゃないんだよ。大人のくせにキッズの心を持ってて、そこで完結してるようなバカどもだよ。
でも、そういう人はこの曲を聴いても判らないだろうね。
――吉村秀樹(bloodthirsty butchers)
現代は”アイドルの時代”であって、
パンクバンドの客もアイドルの客と変らんような
そんな印象を受けることも最近は間々ある。
でも俺は不満だなー。
パンクのライブでアイドルのライブみたいに
決ったタイミングで決ったアクションするみたいなことは
何か違うんだよなー。
やっぱしパンクのライブだったら、
バンドと客と店の人間がそれぞれほどよい緊張感で臨んでほしいわけね。
お互いどれだけの未知の力を見せられるのか、ってことが
ライブの醍醐味なわけで。
演者よアイドルになるなって、俺は言いたい。
アイドルってのは日本語で言うと偶像ね。
自分を偶像にするなって。
町田町蔵は昔、歌った、
偶像化しようとするこの己を破壊せよ、凌駕せよ、と。

俺の存在を頭から打ち消してくれ
俺の存在を頭から否定してくれ
――町田町蔵(INU)

まあしかし武道館まで行こうと思えば、
表街道も駆使する必要があるだろうけど、
GEZANがどれだけ裏街道で行けるのかも見てみたいわけで、
当日、武道館の客が裏街道の匂いをそこらじゅうで発散させてたら
痛快かもしれない……。
ただ単に、盛り上がる曲やって、
モッシュやダイブがいっぱいできました、あー楽しかった、
で満足してたら、オルタナじゃねーし。
メジャーじゃなくてインディーズで武道館ワンマンした、ってことだけで満足するん?
インディーズでもメジャーのバンドと同じような客だったら意味ねーし。
まあでも、GEZANのライブ観て、彼らの武道館ライブ行きたい気にもなんだかなってきた、
ということは、やっぱり表街道のメジャーバンドとは何か違うものが
確実にある、ということは言える。
せっかくそれなりのチケット代払うんだったら、
表街道も裏街道も両方観てみようじゃないか!!
でも両方観れるかは、結局、客の力量次第なんだよ……。

それにしても和歌山には何かあるわー。
竹原ピストルの歌にも和歌山の歌あるなー。

俺は来年も再来年もその先もずっと
和歌山に歌いに来るからよ
おまえも来年も再来年もその先もずっと
俺のライブを観に来いよ
――竹原ピストル

ガルウイングスンダさん、今何してるやろー?
DRAW INTO DISORDERという和歌山のバンド、
なかなかええらしいで!!
和歌山にあるのはカオスなのか、補陀落なのか……。




偶像(アイドル)化しようとするこの己を破壊せよ、偶像(アイドル)化させようとするあの客を凌駕せよ――GEZANライブレポ_b0420692_15200914.jpg
田中恭吉《『未知草カード』[第二]より[橋を渡る人々のいる風景]》

# by caffe-san-marco2 | 2025-10-19 15:50 | ライブ情報・ライブレポート | Comments(0)

そのとき初めて、二人の視線が出会った――シムノン『倫敦(ロンドン)から来た男』②

高市応援団としてネットに書き込みしたり、YouTubeに動画を上げたり、
さかんに世論工作活動を続行中の統一教会信者たち
(それにしても統一教会信者どもは”オールドメディア”なる用語が大好きやなー)が、
挙って小泉進次郎を執拗に攻撃しているところを見ると、
どうも統一教会にとって小泉進次郎氏が総理になると
非常に困った事態になるらしいなあ……。
僕は小泉進次郎でも別にええような気はしてる、というか
小泉進次郎が総理になるとどうなるのか、ちょっと見てみたいような感じはある。
愚か者というのは、トランプでいうとジョーカーの札であって、
時としてジョーカーが最強の札であったりもするが……。

与党だけでなく、野党にも統一教会系の国会議員が紛れ込んでいて、
1つの党内だけですでに呉越同舟状態になってる、
それがほぼすべての党にあてはまる状態。
党と党とが結ばれるというよりは、
人間と人間とが結ばれたり反撥し合ったり、が今起こってることなんだろうなあ。
あるいは国と国とが?

ジョルジュ・シムノン『倫敦(ロンドン)から来た男』(長島良三訳、河出書房新社刊【シムノン本格小説選】)より②

 小舟をもやい綱でつないだ[漁師の]バティストは、波止場の岸壁の上にアナゴの籠を置いた。ロンドンから来た男は、くぼんだ、陰鬱な目で、バティストの一挙手一投足を追っていた。ニコチンで黄色くなった指の間に、たばこを挟んでいる。

「首尾はよくなかったよ!」と、バティストはアナゴを指さして言った。

 彼は、釣り人が波止場にじっと立っている野次馬にでも話しかけるような口振りで、ロンドンから来た男に話している。

 つぎは、ロンドンから来た男がバティストに話しかける番か? 男が長い間じっと待っていたのは、そのためではないのか? マロワンはそう確信していた。彼には、自分が邪魔者であることはわかっていた。だが、いまではもう立ち去る気など微塵もなかった。

 バティストが波止場の岸壁をよじのぼっている間、瘦せこけた顔のイギリス人は、わずかに横に動いた。そのとき初めて、二人の視線が出会った。不安そうな、びっくりしたような眼差しの二人は、どちらも相手から目を離すことができなかった。

 マロワンは突然、怖くなった。何もかもが怖くなった。ロンドンから来た男のほうも、身動きせずにじっとその場に突っ立っている鉄道員が怖くなったようだった。

「転轍操作室のほうに目をあげてはいけない」と、マロワンは心に言いきかせた。「彼はすぐに悟ってしまうだろう」

 しかし、彼は思わず、転轍操作室を見あげていた。相手が自分の視線を追っていることは、十分承知していた。

「鉄道員の制帽にも気づくだろう。そうなれば……」

 当然のことながら、男の目は制帽のほうに向けられた。

「おい、相変らず散歩かい?」と、バティストがたずねた。

 マロワンは返事をせずに、逃げ出した。不器用にも、小エビの荷を背負った女を突きとばし、魚市場の人々をかき分けて走り、市場の反対側まで逃げた。背後を見たとき、もうレインコートの男の姿はなかった。

 マロワンのように男もいきなり、理由もなく、駆け出したことはたしかだった。市場の向こう側の端で、男もおなじようにマロワンの姿をさがしているのではないのか。

そのとき初めて、二人の視線が出会った――シムノン『倫敦(ロンドン)から来た男』②_b0420692_11430714.jpg
そのとき初めて、二人の視線が出会った――シムノン『倫敦(ロンドン)から来た男』②_b0420692_11431261.jpg
シムノン『倫敦から来た男』ドイツ語訳版
そのとき初めて、二人の視線が出会った――シムノン『倫敦(ロンドン)から来た男』②_b0420692_11523557.png
シムノン『倫敦から来た男』ロシア語訳版

突然の離合集散劇から
また突然、何が飛び出してくることやら……
突然段ボール


# by caffe-san-marco2 | 2025-10-18 11:57 | 小説 | Comments(0)

ジャズに散文《JAZZ&prose》ⅩⅩⅢ 心には闇なんて……

隔週木曜日連載の
ジャズに散文《JAZZ&prose》
23回目なんやな!!
ジャズに散文《JAZZ&prose》ⅩⅩⅢ 心には闇なんて……_b0420692_21172784.jpg
すみだストリートジャズフェスティバルというのが、
この土日、10/18・10/19に
東京都墨田区の錦糸公園とかで
開催されるそうです。
入場料は無料!!
墨田区は運河が縦横に走ってますが、
ジャズと運河はなんか似合いですね……。
運河といえば、イタリアのヴェネチアでもジャズのフェスが
今月から来月にかけて開催されますよ!!
今回は、このヴェネチアのジャズフェスの出演者のなかから
Hakan Başarの動画を取り上げてみることにします。
イタリアのパドヴァでの演奏動画をお題にして散文詩を書きますが、
パドヴァはヴェネチアのすぐ西にある街であります。


ジャズに散文《JAZZ&prose》ⅩⅩⅢ

心には闇なんてなかった。ただ、空っぽの心に空っ風が吹き抜けたり、秋風が吹き出したり、嵐が吹き荒れたりするだけだった。そして春雨が降ったり、粉雪が舞ったり。

迷路に迷い込んだんじゃなかった。僕の頭が迷路なだけだった。壁また壁、袋小路に次ぐ袋小路のように見えても、住めば校庭。路地裏で交錯する生者と死者、混濁する潮騒と喧騒、摩擦するバザールと神殿、それらのグルーブの吹き溜まりでネオンよ蹌踉と瞬け、真昼の蝶よ爛々と泳げ、靴音よ颯爽と耽れ
蚋舞ぶよぶよ



Hakan Başarは、
2004年にトルコのイスタンブールで生まれた、
新世代の俊英ピアニストでありますよ!!
bandcampにも音源あります。


# by caffe-san-marco2 | 2025-10-16 21:45 | ジャズに散文《JAZZ&prose》 | Comments(0)

遺書として書いた小説だけが、文学の古典となりうるのだ――舟橋聖一『文藝的グリンプス』

いくら総裁にひょんなことから当選したとはいえ、
安倍政権下で、
安倍の威を借る高市
統一教会の威を借る高市
として、悪辣なことをさんざんしてきた高市の言うことなど
安倍が死んだ今、誰も聞きはしないのは当然であって、
バックに麻生がいるにしても、もはや麻生じゃどうにもならんよ。

高市がほんとうの毒女なのか、
まだ判らぬところはある。
”飲みィのやりィのやりまくった”素顔の高市に
いっそのこと、お戻りになったら?

舟橋聖一『文藝的グリンプス』(新潮社刊)より

☆昭和三十九年三月

 まさか倉橋[由美子]が遺言のつもりで、あの短文を書いたとは思わないが、「パルタイ」の中には、そんな気のする文章もある。

 世の中に、受け容れられるか、どうかを考えて、小説を書いているのは、通俗作家である。遺書ともなれば、世の中がそれを受け容れようと、容れまいと、そんなことは、どうでもいいことである。遺書として書いた小説だけが、文学の古典となりうるのだ。

 小説のうまいへた、よきまとまり、ストーリーや性格描写などが水際立っていることは商品的価値を左右するが、古典となるにはそれだけでは物足りない。商品的にどんな破綻や不手際があっても、また道徳的にどんな破廉恥や害毒があっても、その作家にとって、どうしても書き遺しておきたい一行があれば、そういう文章は、必ず滅びないものである。それと対照的に道徳的な小説というものは、どうしても、世間に媚びてしまう。世間のことを考えずには書けないからである。世間に媚びれば、そんな道徳美談は即ち通俗そのものだ。

*     

 *     

倉橋由美子は、ヒステリックにはなるが、ヘソ曲りではない。また、所謂悪女でもない。

 ホンモノの悪女は、必ず倫理的仮面をもっているが、倉橋は「パルタイ」以来、いつも素顔をむき出しにしている。私には倉橋は、飛びきりの善女のように思われてならない。

「……わたしにとって、小説を書くことはまさに、密室での妄想そのものです。少年が想像力をこすりながら行うオナニーとつながるものです。

(中略)しかし現代は、あらゆるものが、社会の維持と進歩に役立つことを要求されています。

(中略)現代の芸術家は、勇猛果敢な啓蒙者であり、進歩に役立つ思想の強力なスピーカーでなければならないように思えます。わたしを理解しない人こそ、正しい人間です。

 完全に消滅すること、これがわたしの最大の希望です」(三月三〇日付)

 と、倉橋は訴える。思いきって、小説とはオナニーにつながると云いきっているのである。そして私のような毒虫のような女は、完全に消えて失くなってしまいたいと云うのだが、そう云いながら、倉橋の肚の中は、自分以外の全部が消滅して、自分だけが生き残ったら、さぞかし、いい気持だろうという妄想を密かに抱いているだろう。そういう人間は、どうしても、みんなから、虐待されるように出来ている。

 然し、小説が世の中の進歩に、少くとも表面上、役立つものではないことは、二十世紀の当初から、一部の文学者には、はっきり認識されているのではないだろうか。

 私がそもそも書出した大正末期には、小説が社会の維持や改良には関係ないばかりか、それ自体、無目的で、政治的にはむしろ好ましくないものだと、ガッチリ思いこんでいた。その他方に、社会革命のための左翼文学が強力に存在し、作家は党に隷属し、プロレタリアートの解放と闘争のために、アジ・プロを書かなければならぬという大袈裟な目的意識が提唱されていた時代なので、その戦列に加わらなかった私などは、社会に有毒な小説を書くのを、当り前と考えていたのである。文壇的には、新感覚派とか新興芸術派とかの類別に擬せられたものの、自分の小説が、社会の維持に役立つなどと、大それた功名心は、皆無だった筈である。そのために、風紀や社会衛生に害毒ありとして、虐待されても仕方がないと思っていた。


遺書として書いた小説だけが、文学の古典となりうるのだ――舟橋聖一『文藝的グリンプス』_b0420692_21303002.jpg
photo by Dan Gold

倉橋由美子は、1935(昭和10)年10月10日に
高知県香美郡土佐山田町(現・香美市)に生まれました。
ちょうど今月で生誕90年ですね!!
2005年に亡くなったので、没後20年でもあります。

高知の歌といえば、やっぱし
「南国土佐を後にして」でしょうかね……


# by caffe-san-marco2 | 2025-10-15 21:39 | 随筆・自叙伝・ノンフィクション・旅行記 | Comments(0)

まるきんではなく、まるこんと呼んでいます――中里恒子『仮寝の宿』②

秋の祭りもいいですねー。
秋の実りで懐具合が豊かになっている場合は特に……。

中里恒子『仮寝の宿』より②

どんどこどんどこ太鼓の音につられて、門前へ出てみる。車で通った時はわからなかったが、こんぴらさんの石段に向って、正面の参道はだらだらと登り勾配になり、道幅も昔のまま、両側にびっしり並んだ土産物店、旅館。丸に金の字の赤い提灯。町並も、近頃流行の復元スタイルではなく、昔ながらのこと故、構えもどっしりと古びて、お大尽ならずとも、片端から買いあさりたいような祭り気分である。

 とにかく蒸すので、丸に金の字の赤団扇を買い、おあぎ乍ら歩き、一軒一軒のぞいて見る。つい、この夏、娘たちが来た時、清水坂の売店をのぞき見てあれこれ買わされた面白さを、こんどは自分の為にする。何から何まで、丸に金の字で、いささか慾ばり気味に思ったが、或る店で、まるきんではなく、まるこんと呼んでいますと言う。やはり、こんぴらさんの、こんであった。

「醬油豆、これがさぬきの名物なのです、」

 安田嬢、なつかし気に言うが、空豆を煎って、熱いうちにじゃっと醬油につけるだけのもので、辛くてかたいときいては、遠慮した。へんこつ屋の羊羹、まんじゅう、これも重そうだからとて、まんじゅうを留守番のお土産に、食べものは、さぬき名物うどんを土産ときめて、なんとはなしに、町中をぶらぶらしていると、橋の袂で涼んでいたおじいさんが、声をかける。

「虎屋のお客さんか、おまいりはすみましたか、」

「明日、お山へゆきます、昔は、ここまで船できたのではないですか、」

「あたしのじじいの、そのまたじいの先の……という大昔は、塩入という所まで、海だったんですよ、だけど、こんぴらふねふねの頃は、丸亀か、多度津までです、お十日さんは賑かだがね、」

「どうです、おまいりの人は、」

「やっぱり多いですよ、多いけれど、金は使わなくなったね、若い人が多いからね、」

 そう言っているうちにも、団体、講中の旗をかかげた人たちが、ぞろぞろ所定の宿にはいり、修学旅行の学生たちが、買物に余念がない。


まるきんではなく、まるこんと呼んでいます――中里恒子『仮寝の宿』②_b0420692_12413286.jpg
photo by Dan Gold

今回もBALZACを聴いてみましょう!!
ライブ映像でいってみますか


# by caffe-san-marco2 | 2025-10-13 12:31 | 随筆・自叙伝・ノンフィクション・旅行記 | Comments(0)


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